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the who live 1978


[7] After a successful tour in 1982, the band broke up. They also displayed the titles of their songs on a scoreboard at the rear of the stadium where no one facing the stage could have seen them ....strange . [36] A final package tour with the Small Faces, Joe Cocker and the Crazy World of Arthur Brown took place in November,[37] and on 10 December, the group made a guest appearance on the television special, The Rolling Stones Rock and Roll Circus, which was subsequently shelved by the Stones. The Who argued backstage with Hendrix about the running order, before agreeing to go on first following a coin toss. [1], The band added three new songs from Who Are You in 1979, "Who Are You," "Sister Disco," and "Music Must Change"; John Entwistle's "Trick of the Light" was also played occasionally, with Entwistle playing 8 string bass and Pete Townshend also playing a standard bass guitar. Nearly nightly, Townshend was improvising and incorporating new songs into the set list, such as "Dance It Away", "That's Rock And Roll", "I'm London", "Cat's in the Cupboard" and others. Here is a fairly typical set list for this leg (actually taken from a concert at the Arenes de Frejus in Frejus on 12 May 1979).

[28], In June, the Who flew out to the US to begin their first proper tour there. It must have spoilt the effects of the concert for many people, and the presence of so many people confusedly wandering around the streets of Wembley must have caused great concern to the local residents. [4], Encores (variations of the following list):[3][4], There were some set list substitutions, variations, and order switches during the tour.

[46] The group made a second trip to the Isle of Wight, appearing at the 1970 festival on 29 August, before an audience of 600,000. The Who Tour 1979 was The Who's first concert tour since the death of original drummer Keith Moon. [9] The band officially reunited in 1996, starting with a two-year retrospective tour of Quadrophenia.

By 1962, the founding members of the Who (Daltrey, Townshend and Entwistle) were playing in the Detours regularly around West London. The group spent much of the rest of the year on the road, including two lengthy US tours. This was very unfortunate, as the service had not only been providing general and transport information, but also acting as a lost people's point. [87], List of tours and performances by The Who, an English rock band, sfn error: no target: CITEREFTownshend2012 (, harvnb error: no target: CITEREFNeillKent1997 (, "Rock & Roll Tragedy: Why 11 Died at the Who's Cincinnati Concert", "The Who's Townshend Reveals the Story Behind Big Super Bowl Set", "Review: The Who Performs 'Quadrophenia' and More at Staples Center", "The Who to Perform Tommy in Full on 2017 UK Tour", "The Who Announce U.S.

When they reconvened in September to work on The Kids Are Alright, Townshend announced there would be no touring.

[63], The US tour started on 20 November at the Cow Palace in San Francisco. They returned to the States in November for an official tour, which was marred by tragedy when 11 fans were killed and 26 others were injured at a crowd crush before a concert at Riverfront Coliseum in Cincinnati on 3 December. Dates for 'Moving On!' It is recommended for future concerts at Wembley Stadium, Who can help flesh out the festival with reviews , information, recordings and photographs ? The heat would not have helped as dehydration would have set in pretty rapidly .

A horn section was introduced to the band's act for the first time around this time. [12] The following February, they began a Monday night residency at the White Hart Hotel in Acton and also started playing regularly at the Oldfield Hotel in Greenford. [34] After an incident that took place on a flight to Sydney, the band were briefly arrested in Melbourne and then forced to leave the country; Prime Minister John Gorton sent a telegram to The Who telling them never to return to Australia.


Encores (variations of the following list):[5], There were some set list substitutions, variations, and order switches during the tour. -The Who onstage Wembley 1979 © Vin Miles.

[40] Daltrey's voice had improved, and the quality of their live shows improved. this is a really nice japan reissue of live at leeds from 1978, this comes with a nice glossy live shot poster, my guess is the live shot is from the last who tour with moon from 1976, this has a really cool 70s style obi strip as you can see, the poster should depict more of … [60], The tour started on 28 October 1973. [59] The group only allowed two days rehearsals, one of which was abandoned after Daltrey punched Townshend following an argument. City football club .

Send reports, setlists, pictures etc. "My Wife" was played on 17 September and took the place of "Boris the Spider" on 18 September. From about 3pm FWS and the Medical Centre became extremely busy, dealing with an enormous number of People suffering from the adverse effects of alcohol, mainly cider. Roger Daltrey: Vocals, Harmonica John Entwistle: Vocals, Bass Keith Moon: Vocals, Drums Pete Townshend: Guitar, Vocals.

!』をリリースしている。, 1972年は結成以来初の長期のオフをとったため、新作はシングル2枚をリリースするに留まったが、この間にエントウィッスル2枚目のソロアルバム『風の詩』、そしてタウンゼントの1stソロ・アルバム『フー・ケイム・ファースト』がリリースされている。またこの年、『トミー』のロンドン交響楽団とのコラボレーションによるオーケストラ版の発表と、それに伴うレインボウ・シアターにおける『トミー』の舞台公演が行われている。, 1973年、ダルトリーが1stソロ・アルバム『ダルトリー』をリリース。アルバムからのシングル「ギヴィング・イット・オール・アウェイ」が全英5位のヒットとなる。同年10月、『トミー』に続くロック・オペラ第2弾『四重人格』を発表。英米共に2位につける大ヒットとなる。だがタウンゼントが後に「『四重人格』がザ・フーにとって最後の傑作だった」[51]と語ったように、この時期をピークにザ・フーは下降線をたどるようになる。この年の10月に妻と離婚したムーンは以前にもまして酒に溺れるようになり、アメリカ・カナダツアー初日の11月20日、本番前に酒と動物用の鎮静剤を混ぜて飲んだ事により本番中に昏倒、客席からドラムが叩ける者を募って急場をしのぐという出来事があった[52]。さらに、メンバーに支払われるべき未払いの印税があることが発覚し、それまで蜜月の関係にあったランバートやスタンプとの間に修復不可能な亀裂が生じる。ムーン以外のメンバーはマネージャー達に対し法的手段に出る事を決意した[53]。, 1974年、ランバートとスタンプに代わり、ビル・カービシュリーがザ・フーのマネージャーに就任する[54]。この年はほとんどが映画『トミー』の製作に費やされた。映画は1975年上映。この映画で俳優デビューを飾ったダルトリーは、これをきっかけに俳優業にも本格的に進出する事になる。この間に空いた時間を、エントウィッスルはバンド初の未発表曲集『オッズ&ソッズ』の編集作業と、自身のソロ活動に当てた。エントウィッスルは自身が中心となるバンド、ジョン・エントウィッスルズ・オックスを結成し、1974年12月から翌年3月にかけてイギリス、アメリカでツアーを行うが、客の入りは悪く、結局30000ポンド以上もの赤字を出す結果となった[55]。, 1975年7月、ランバートが映画『トミー』で自身に支払われるはずの報酬がなかったとして、ザ・フーと新しいマネージャーを訴える用意があるとインタビューで発言したことにより、ザ・フーとの不和が表沙汰になる[56]。なお、ランバートとの争いは1977年1月に長い話し合いの末にようやく解決したが[57]、その後ランバートは音楽業界から身を引き、酒と薬に溺れる隠遁生活を送り、1981年に自宅の階段から転落して死亡した[58]。また、タウンゼントとダルトリーが誌面上で互いを中傷し合うという出来事もあり、ザ・フー解散説が実しやかに囁かれるようになる[59]。この年はアルバム『バイ・ナンバーズ』と、ムーン唯一のソロ・アルバム『ツー・サイズ・オブ・ザ・ムーン』のリリース、そしてこれまでにない大規模なスタジアム・ツアーが行われた。10月から翌年10月まで続いたこのツアーは大盛況となり、ザ・フーはローリング・ストーン誌の1976年最優秀グループに選ばれた。エントウィッスルは「キースとの最後になったこのツアーがザ・フーのキャリアの頂点だった」と語っている[60]。, だがこのツアー中の1976年1月、ムーンはアルコールの禁断症状を発症し一時意識不明に陥る[61]。さらに8月にはマイアミで過度の飲酒により8日間の入院を余儀なくされ、ツアーの日程に影響を及ぼした[62]。ムーンの長年にわたる酒と薬物による身体・健康状態は深刻なものとなっており、これによりザ・フーは以降長期のツアーを組めなくなる。この年と1977年はデビュー以来初めて新作が発表されず、ダルトリーとタウンゼントがそれぞれソロ・アルバムをリリースするに留まった。, 1977年12月、映画『キッズ・アー・オールライト』のために、ロンドン、キルバーンのゴーモント・ステート・シネマにおいてライヴを行うも、1年以上ものブランクのせいで演奏は上手くいかず、この時のライヴの映像はほとんど映画で使われる事はなかった[63]。翌1978年5月、再度観客を入れての映画用のライヴを行う。これがムーンが参加したザ・フー最後のライヴとなった[64]。同年8月、3年ぶりのオリジナルアルバム『フー・アー・ユー』をリリース。ザ・フーの復活を印象付けたかのように思われた。だがそれから間もない9月7日、ポール・マッカートニー主催のパーティーに参加した翌日、ムーンはオーバードースによりロンドン、メイフェアのフラットで死亡した。32歳だった[65]。ムーンの死の翌日、タウンゼントはムーンに対する哀悼の念と、ザ・フーを存続させる決意を公式声明分で述べた[66]。, ムーンの死に際し、バンドの元にジェネシスのフィル・コリンズから「いつでもお役に立つぜ」と連絡が来たが、タウンゼントが望んでいたのは元フェイセズのケニー・ジョーンズだった[67]。1979年、タウンゼントの希望通りケニー・ジョーンズが新メンバーとして加入、またサポートメンバーのキーボーディストにジョン・“ラビット”・バンドリックを加え、ザ・フーは再始動する。だが同年12月3日、米オハイオ州シンシナティでのコンサートで開場時に観客が入場ゲートに殺到し、将棋倒しとなって11人が死亡する事故が起きる。メンバーはライヴ終了後に事を知らされ、大きなショックを受ける[68]。同年12月28日、カンボジア難民救済コンサートに出演。, 1981年、ジョーンズ加入後初となるアルバム『フェイス・ダンシズ』をリリース。この頃から新メンバーのジョーンズをめぐってバンド内に軋みが生じ始める。タウンゼントは新生ザ・フーの演奏を楽しんでいたが[69]、ダルトリーはジョーンズのプレイが気に入らず、ミーティングの席で「ケニーを辞めさせろ」と言い出した。一方ジョーンズは「ピートがいい曲をソロ活動の方に使ってしまっている」と不満を訴えた[70]。バンド内の不和に加え、家庭内の問題も抱えていたタウンゼントはこの頃から絶っていたドラッグに再び手を出すようになり、一時は深刻な状態に陥るが、2ヶ月のリハビリを経て復帰する[71]。, だが、もはや彼らにかつてのような勢いはなかった。1982年、解散前のラストアルバムとなった『イッツ・ハード』をリリース。同年12月のトロントで最後のライヴを行う。ラストナンバーはエントウィッスルがリードをとる「ツイスト・アンド・シャウト」だった[68]。ラストライブの模様は1984年のライヴアルバム『フーズ・ラスト』に収録された。1983年6月、タウンゼントがザ・フー脱退の意向を示し、正式にバンドの解散が決まった[72]。ダルトリーは後年のインタビューで「ピートはツアーからのプレッシャーについてよく話していたし、ドラッグにもはまっていた。彼からプレッシャーを取り除いてあげたかった。そうすれば彼は自殺しないだろうと思い、解散を決めた」と語っている[73]。, 1985年7月、ライヴ・エイドにて最初の再結成。1988年2月には英国レコード産業協会(BPIアワード)の授賞式で3曲を披露。これを最後にケニー・ジョーンズはザ・フーと袂を分った[68]。この前年の1987年、タウンゼントは結成25周年に当たる1989年に、ザ・フーとしての新作とツアーを行う事を表明していたが、新作は彼のソロアルバム『アイアン・マン』の中で、ザ・フー名義の曲が2曲収録されるに留まった[74]。しかしツアーは『トミー』の発表20周年に合わせて敢行された。このツアーでは総勢15名にもなる豪華なバックバンドを従え、演奏もかつてのものとは異なりかなりシンフォニックなものになった。メンバーは1985年から1986年にかけてタウンゼントのソロ・ライブ時に編成されたディープ・エンドという名のバックバンドが流用される形となり、ドラムを担当したサイモン・フィリップスもその中の一人であった。だがこの頃より、タウンゼントが以前より患っていた難聴が進行し、自身はアコースティックギターを弾くに留まり、それを補うためにセカンド・ギタリストとしてスティーヴ・ボルトンが起用される[75]。このツアーにおける録音は、後にライヴ・アルバム『ジョイン・トゥゲザー』としてリリースされた。1990年、ロックの殿堂入り[76]。, デビュー30周年の1994年には、未発表曲やレア・トラックなどを収録したボックスセット『ザ・フー・ボックス』及び同タイトルのビデオ作品を発表。1995年より、音楽ジャーナリストのクリス・チャールズワース監修のもと、ザ・フーの全カタログの未発表曲を付属したリマスター/リミックス版が断続的にリリースされる。第1弾は『ライヴ・アット・リーズ』拡大版であった。リマスタリングおよびリミキシングはアルバム『フー・アー・ユー』でプロデューサーを務めたジョン・アストリーが一手に引き受けた(タウンゼントの元義弟でもある)[77]。, 1996年、ハイドパークでの英チャールズ皇太子が主催するプリンス・トラスト・コンサートにおける『四重人格』全曲ライブ演奏を契機に本格的なツアー活動を再開。ドラムにリンゴ・スターの息子であるザック・スターキー、また、ギターとボーカルにタウンゼントの実弟であるサイモン・タウンゼントが加入するなどツアーバンドに変更があった。ツアー当初は重要パートはあまり弾いていなかったタウンゼントも、中盤以降は自らリードギターを弾くようになった。1997年までツアーは続く[78]。, 1999年10月から12月にかけてiBash '99及びニール・ヤング夫妻が主催するブリッジ・スクール・ベネフィット・コンサートへの出演を含め計7回のライブを行う。ジョン・バンドリック、ザック・スターキーを含めた5人の基本的なバンド編成に戻り、タウンゼントもほぼ全ての曲で再びリードギターを弾くようになる。このツアーの目的は、経済的に逼迫していたエントウィッスルを救済するためでもあった[79]。2000年に北米・全英ツアー、11月27日にはダルトリーが支援している青少年のがんや白血病患者の支援団体であるティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ・コンサートが英ロイヤル・アルバート・ホールで開催され、ポール・ウェラー、オアシスのノエル・ギャラガーやパール・ジャムのエディ・ヴェダーなどと競演。, 2001年2月、グラミー賞特別功労賞を受賞。10月20日、アメリカ同時多発テロ事件被害者のための支援コンサートとして米マディソン・スクエア・ガーデンで行われたザ・コンサート・フォー・ニューヨーク・シティに出演。2002年2月7日と8日の両日、ロイヤル・アルバート・ホールでのティーンエイジ・キャンサー・トラストのためのチャリティ・コンサートに出演。これがエントウィッスルが参加した最後のライブ演奏となった[80]。, 全米ツアー初日を翌日に控えた同年6月27日、エントウィッスルが米ネバダ州ラスベガスのホテルで、薬物摂取に起因する心臓発作で急死する(57歳没)。残されたメンバーはツアーを続行すべきか悩み苦しんだ末、過去にタウンゼントのソロ作品にも参加した経験のあるピノ・パラディーノを抜擢し、7月1日からツアーを開始した。なお、この日のハリウッド・ボウル公演では、メンバー全員が黒い衣装でステージに上がった[80]。またこの年、長年廃盤状態だった1stアルバム『マイ・ジェネレーション』が、初期プロデューサーのシェル・タルミーとの関係が改善した事からようやく復刻された。, 2003年11月、久しぶりの新曲「リアル・グッド・ルッキング・ボーイ」を録音。この曲のベースはグレッグ・レイクに依頼して弾いてもらっている。デビュー40周年の2004年、3月22日のロンドンよりツアーを開始。6月12日、復活版ワイト島フェスティバルに出演。7月24日および25日、横浜と大阪で開催されたロック・フェスティバル、POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004への出演のため初来日。その後2008年にもバンド単独での来日公演が行われている。また、このツアーでは1968年以来となるオーストラリア公演が実現している[81]。2005年7月2日、ハイドパークで行われたLIVE 8に出演。ベースのピノ・パラディーノはジェフ・ベック、ドラムのザック・スターキーはオアシスとツアーに出ていたため、代役としてデーモン・ミンチェラとスティーヴ・ホワイトがそれぞれのパートを担当。, 2006年6月17日、ヨーロッパとそれに続く世界ツアーの初日として1970年以来36年ぶりにリーズ大学でライブを行う。11月、『イッツ・ハード』以来24年ぶりのスタジオ録音フルアルバムとなる『エンドレス・ワイヤー』を発表。2007年6月24日、グラストンベリー・フェスティバルのヘッドライナーとして出演。, 2010年2月7日、マイアミで行われた第44回スーパーボウルのハーフタイムショーを行う。3月30日にはロイヤル・アルバート・ホールにおいて『四重人格』の1日限りの再演。この公演にはパール・ジャムのエディ・ヴェダーやカサビアンのトム・ミーガンがゲスト出演している[82]。2012年、ロンドンオリンピック閉会式に出演。さらに同年から2013年にかけて、「Quadrophenia and More」と題し、『四重人格』を再演するツアーを行う。, デビュー50周年の2014年、新曲を含めた2枚組オールタイムベストアルバム『ヒッツ50』リリース。また同タイトルのツアーをアラブ首長国連邦・アブダビより開始。2015年、タウンゼントは「このツアーが終ったら、俺達は別々の道を歩む事になるだろう」とザ・フー解散を示唆した。ただし、「ロジャーとは折にふれ何かやっていく事にはなるだろう」と、ダルトリーとのコラボレーションは継続していくことも表明している[83]。この「ヒッツ50」ツアーは、2015年9月にダルトリーがウイルス性髄膜炎を患ったことにより中断された[84]。2016年6月、4度目の出演となるワイト島フェスティバルでツアー復帰、新ツアー「 Back to the Who Tour 51!」を開始する(同年9月まで)。2017年3月から4月にかけて、1989年以来となるアルバム『トミー』のフル・パフォーマンス・ツアー「Tommy and More」を敢行。, 2019年1月、『エンドレス・ワイヤー』以来となるオリジナルアルバムを年内中にリリースすること、並びに5月より北米ツアーを開始することが発表された。タウンゼントはこのツアーが今度こそ最後になることを示唆した[85]。, ザ・フーはアマチュア時代にはR&Bなどのブラック・ミュージックを中心にプレイして来たが、ビートルズやローリング・ストーンズといった同年代のバンドに比べると黒人音楽の要素は薄く、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』の頃から独自のポップセンスを見せていた[86]。パワー・ポップというジャンルはタウンゼントが発した言葉から生まれたとされているが[87]、当時のザ・フーはハードでラウドな演奏にキャッチーなメロディを乗せるというパワー・ポップの特徴そのものだった。ミュージシャンで音楽評論家の和久井光司は「ザ・フーには正統的なブルースの要素がないのが“パンクの元祖”になり得た秘訣だろう。伝統なんてものはパンクスにとって壊してナンボのものだから、ブルースの要素は迷惑でしかない」と分析している[88]。だが1969年のアルバム『トミー』でシリアスで内省的な作風に転換し、それまでのポップバンドのイメージを刷新すると、初のライブ盤『ライヴ・アット・リーズ』ではこれまでレコードでは表現しきれなかった彼らのハードロック・バンドとしての側面を見せた。そのハードロックサウンドをスタジオで再現し、さらにシンセサイザーを導入して時代の最先端をいくプログレッシブな傑作となった『フーズ・ネクスト』で、彼等はその人気を決定付ける事となる。『四重人格』ではそのエレクトロニクス・サウンドをさらに推し進めたが、その次の『バイ・ナンバーズ』では一転してシンプルなサウンドに戻るなど、時代や作品によって様々な側面を見せた。, メンバーで楽曲を共作する事はほとんどなく、グループの楽曲の95%以上はタウンゼント一人で書かれている[89]。タウンゼントはただ作曲するだけでなく、ギターやベース、ドラムス等の基本アレンジも一人でこなしており、自宅でダビング録音をし、そのデモテープを他のメンバーに渡し、曲を覚えてもらってからレコーディングに入るという習慣がいつしか出来上がっていたという[89]。そのデモテープは、タウンゼントのソロ・アルバム『フー・ケイム・ファースト』や『スクープ』(1983年)などで聴くことが出来る。タウンゼントはまた、サウンド・クリエーターとしても評価が高く、クラシックの作曲技法である対位法を取り入れた『トミー』などのドラマティックなロックオペラ、シンセサイザーのシークエンスフレーズと同期させた演奏(例:「ババ・オライリィ」)など、ロックの枠を広げる画期的な試みも多い。, ハイ・ナンバーズと名乗っていた頃より、大音量で演奏するバンドとして知られていた[20]。1976年にはロンドンのライヴで120デジベルという音量を記録し、当時の「世界一大音量を出すバンド」としてギネスブックに登録された[90]。タウンゼントも初期の頃に受けたインタビューで「音楽のクオリティなんて関係ない。大事なのはパワーとボリュームなんだ」と答えていた[91][注釈 1]。彼らが大音量でプレイするようになったのは、アマチュア時代にタウンゼントとエントウィッスルが互いに負けじと大きなアンプを次々と購入していったことに起因する。タウンゼントは「2台のアンプを同時に使ったギタリストは私が最初だろう」と語っている[92]。, しかし、彼等がライヴバンドとしての名声を獲得し得たのは、音の大きさよりも個々の確かな演奏技術であった。リードベースと言われるエントウィッスルの高度なテクニック、全編フィルインとも言える手数の多いムーンのドラムは、他に類を見ない物であった。タウンゼントは「ベースとドラムがリード楽器で、ギターがリズム楽器になるという、本来の立場が逆転していたのがザ・フーのユニークさだった」とし、[89]彼らに影響を受けたオアシスのノエル・ギャラガーは「ザ・フーは全員がリード楽器なんだよ。イカれてる」と語っている。そのタウンゼントも、速弾きのソロ・プレイやテクニカルさとは無縁であるものの、リードギターとリズムギターを合わせたようなパワーコードや、「ピンボールの魔術師」などに代表される高速カッティングといったリズムギターに定評がある[89]。ダルトリーは初期の頃こそ声が細く、器楽のパワーに押され気味であったが、'70年代に入ると声が太くなり、ややハスキーな声質を生かした独自の唱法を獲得し、ボーカリストとしての評価を確立した。以降、彼は繊細さと力強さの振幅の激しいザ・フーの楽曲に極めてすぐれた解釈をみせ、今日に至るまで歌い続けている。, ザ・フーの特徴と言えばステージでの派手なアクションが筆頭に挙げられる。ダルトリーは投げ縄の如くマイクを振り回し、タウンゼントは縦横無尽に飛び跳ね、腕を大きく振り回しながらギターをかき鳴らした(ウィンドミル奏法と呼ばれるこの弾き方は、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズがステージでウォーミングアップのために腕を回したのがヒントとなっている[10])。ムーンは全身を投げ出すようにドラムを叩きまくるその破天荒なプレイスタイルで、デビュー当初から評判だった。彼らのアクションとは対照的に、ベースのエントウィッスルは黙々と弾いていたが、その歪んだ大音量はタウンゼントのギターと対等するものだった。, 終盤で行われる楽器破壊もまたザ・フーのコンサートの目玉だった。元々はタウンゼントが天井の低い会場で誤ってギターを天井にぶつけたのがパフォーマンスと受け取られたことがきっかけだった[93]。この楽器破壊のパフォーマンスはたちまち評判を呼び、観客のみならず、取材に来た記者までもが客席から「ピート、ギターを壊せ!」と煽る始末だった[94]。パフォーマンスでやる場合もあれば、感情にまかせて破壊することもあり、1973年にはテレビ番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」で、何を思ったかタウンゼントは、演奏中に突然ギターとムーンのドラムスを破壊した(この時中指をつき立てたりもしたため、BBCから出入り禁止の処分となった)[95]。タウンゼントに影響される形で、やがてムーンもドラムを壊すようになった。特に語り草となっているのが1967年のテレビ番組「スマザーズ・ブラザーズ・ショー」出演時のパフォーマンスで、ムーンはバスドラムに安全基準を超える大量の閃光粉を仕込み、演奏後に爆発させた。爆風をまともに受けたタウンゼントは一時的に耳が聞こえなくなり、これが現在まで続く聴覚障害の遠因となった。ムーン自身も負傷し、さらにゲストのベティ・デイヴィスを気絶させた[96]。こうした過激なステージパフォーマンスは、後にセックス・ピストルズやパール・ジャムなどパンク・ロックのアーティストらに大きな影響を与えた。ピストルズは「恋のピンチ・ヒッター」をカバーし、ライブでも演奏している。, ステージでの凶暴性とは対照的に、ザ・フー(とりわけタウンゼント)の歌詞世界は非常に内省的なものが多く、タウンゼントのロック・ミュージシャンらしからぬ表現力は「文学的」とも評される[97]。初期の頃は「マイ・ジェネレーション」に代表される若者のフラストレーションを代弁するような歌詞が多かったが、1969年の『トミー』以降、精神的で繊細な内容が多く見受けられるようになった。これにはタウンゼントが帰依したミハー・ババからの影響が大きい。タウンゼント自身も「ババのおかげで俺の人生は完全に変わったしバンド全体も変わった」と認めている[32]。しかし、1975年の『ザ・フー・バイ・ナンバーズ』ではさらに変化し、精神性よりもタウンゼント個人の現実的な問題を歌詞に反映させるようになった[59]。タウンゼントに次いで多くの曲を書いたエントウィッスルは、変質者やアルコール中毒者、死後の世界など、ブラックユーモアに富んだ歌詞が多かった。しかしメロディはタウンゼント同様ポップで、歌詞とメロディのミスマッチさで独特な雰囲気を作り出した[98]。, 歌詞に物語性を持たせたのもザ・フーの楽曲の大きな特徴である。先駆けとなったのが、1966年のアルバム『ア・クイック・ワン』収録のタイトル曲で、この流れは次作の『セル・アウト』収録の「ラエル」にも受け継がれ、やがてロック・オペラという新たなジャンルを確立させた『トミー』へと結実する[99]。ザ・フーはその後も『ライフハウス』[注釈 2]、『四重人格』と新たなロック・オペラを生み出し、現時点では最新作となる『エンドレス・ワイヤー』内でも「ワイヤー&グラス」というミニ・オペラを披露している。『トミー』は全世界に大きな影響を与え、『ジーザス・クライスト・スーパースター』(1970年)やピンク・フロイドの『ザ・ウォール』(1979年)など、多数のロック・オペラ作品が生み出された。, ザ・フーは当初モッズ・バンドとしてデビューしたが、メンバーの中にモッズであった者は一人もいなかった。ダルトリーは「俺はテッズ(テディボーイ)だった」としており[100]、タウンゼントも1973年のインタビューで「俺達はモッズでも何でもなかったよ。当時流行だったし、マネージャーが俺達を戦略的にモッズとして売り出したんだ。成功したポップバンドで本物のモッズといえばスモール・フェイセズぐらいなもんで、それに比べりゃ俺達なんて便乗組もいいとこさ」と語っている[101]。だが別のインタビューでは「ハイ・ナンバーズもザ・フーもれっきとしたモッズ・バンドだった。モッズに受け入れられてたらモッズなんだよ。デビュー当時、俺は生きてるだけで幸せだった。気分は最高にモッズだったよ。一つだけ確かなのは、俺達はモッズに見られたくて必死だったってことさ」とも語っている[102]。しかし、彼らがモッズとして振舞っていた時期は短く、1stアルバム『マイ・ジェネレーション』を以って、ザ・フーはモッズの看板を下ろした[25]。タウンゼントは1970年に「とにかく俺はモッズの亡霊、ノスタルジーからとっとと離れたかったんだ」と語っており[103]、ダルトリーも「ピートはシェパーズ・ブッシュのガキ共のための曲じゃなく、もっと大きなものを曲の題材にしていた。奴の曲の通訳者を務める俺はそう思うよ」と、ザ・フーがモッズのイメージで終わるバンドではないことを主張している[104]。, ザ・フーはそのファッションにも注目が集まった。彼らがデビューした頃はポップアートが最先端とされており、ザ・フーはこれを戦略的に取り入れた。ユニオンジャックで仕立てたテーラードジャケット、服の全面につけたバッジ、ムーンが好んで着用したラウンデルをあしらったトレーナーなどはその一端であり、彼らのトレードマークとなった[105]。特にラウンデルは、グループがモッズのイメージを払拭した後も作品のジャケットや関連グッズの意匠に使用され続けている。しかしそれまでのポップな作風から大きく変換した1969年以降は、女の子受けするファッションとは無縁になり、ダルトリーは素肌にフリンジの付いたジャケットを羽織り、タウンゼントは白い作業着をステージ衣装にした。エントウィッスルも骸骨をあしらったラバースーツでインパクトを与えたが、1970年代も中頃になると奇抜なファッションは見られなくなった。, なお、デビュー当時のザ・フーのメンバーで、最も女の子からの人気が高かったのはムーンだった。だが彼は20代のうちにかなり容姿が老け込んでしまい、代わってダルトリーがグループのセックス・シンボルとなった[106]。しかし、ザ・フーのメンバーはルックスにはあまり自信を持っていないようで、ダルトリーは「俺たち不細工すぎたから」と自嘲しており[107]、タウンゼントも自身の大きな鼻がコンプレックスで、ステージで派手なアクションを決めるのも「顔より体の方に注目してほしかったから」と明かしている[20]。, 日本におけるザ・フーの知名度は、ビートルズやストーンズ、また1970年代以降に登場したレッド・ツェッペリンやエアロスミス、クイーンなど、同年代に活躍したバンドに比べると高いとは言えず、スモール・イン・ジャパンの代表として挙げられることがある[108]。バンドの代表作の一つでもある『四重人格』も、当時の日本では全く話題にならなかったという[109]。音楽ライターの夏川翠はこの原因について、彼らが全盛期だった1970年代に来日しなかったからだと指摘する。ザ・フーが来日しなかった理由については当時から様々な憶測が流れていたが、夏川は「実話だ」として次のような話を明かしている。夏川が海外アーティストの追っかけをしていた1972年当時、同じく追っかけをしていた友人があるプロモーターの社長に「ザ・フーを呼んで」とお願いしたところ「ダメ、あれは怖いから!」と断わられたという。彼らはレッド・ツェッペリン以上の乱暴者の集団であるとの噂が日本に伝わっていたのである[110]。尚、1975年には映画『トミー』のヒットに乗じて来日しようと、実際にバンド内で話し合いが持たれたことがあるが、タウンゼントが様々な問題を抱えて気落ちしていた時期でもあり、彼が拒んだため結局実現しなかった[111]。, 1974年にフェイセズとして来日したケニー・ジョーンズを除くザ・フーのメンバーの中で、最初に日本の土を踏んだのはエントウィッスルだった。1987年に楽器フェアのプロモーションで来日が最初で、その後も度々来日し、計4度も日本を訪れたが、ザ・フーとして来日することは遂になかった[112]。ダルトリーとタウンゼントが初来日を果たしたのは2004年になってからだった。日本にはその後も2008年に単独公演のために訪れている。また2012年にはダルトリーがソロで来日し、公演を行っている。, マイ・ジェネレーション - ア・クイック・ワン - ザ・フー・セル・アウト - ロック・オペラ “トミー” - フーズ・ネクスト - 四重人格 - オッズ&ソッズ - ザ・フー・バイ・ナンバーズ - フー・アー・ユー - キッズ・アー・オールライト - フェイス・ダンシズ - イッツ・ハード - エンドレス・ワイヤー - フー, ライヴ・アット・リーズ - フーズ・ラスト - ジョイン・トゥゲザー - ワイト島ライヴ1970, 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House」(1974年8月29日収録)より。映画『キッズ・アー・オールライト』収録。, 『ROCK JET』Vol.21(シンコーミュージック・エンターテイメント刊、2005年、, POCARI SWEAT BLUE WAVE THE ROCK ODYSSEY 2004, The Iron Man: The Musical by Pete Townshend, ローリングストーン誌最も偉大なアーティスト | 田副暢宣(Masanori Tazoe), ピート・タウンゼント、『四重人格』はザ・フーの最後の傑作だったと語る (2011/11/13) 洋楽ニュース|音楽情報サイトrockinon.com(ロッキング・オン ドットコム).
[73], Owing to group debts, the Who spent much of 1976 touring.

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